“常識”についてのキンコン西野さんの定義が心にぶっ刺さった…

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常識というのは、正解不正解ではなくて、多数決だ。

引用元:https://lineblog.me/nishino/archives/9295423.html

 

ぐぅの音も出ないほどその通りだと思う。

 

思えば子供の頃からそうだった。
クラスでなにか意見が別れると、意見をまとめるための手段として多数決が利用された。

 

大人になっても同じだった。
国会で法律を決めるための手段は、”多数決”だった。

 

 

 

変わる常識

そこにあるのは、正解か不正解かではない。
多勢の意見を”おそらく正解”として採用すること

 

 

別に多数決に反対するつもりは全くない。
ただ、そこで選ばれた正解は、必ずしも本質的に正解かどうかはわからない。
多数決により決められた意見が間違えている可能性というのは、思いのほか高いとすら思う。

 

“常識”という、時代により移ろいやすいものは特にそう。

 

200年前には常識だった、ちょんまげに和服。
今、街中をどれだけ歩き回ってもそんな人見かけない。

 

人口の8割方が百姓として生きていた時代…
現代ではどうだろう?
後継者問題が起きるほどに、百姓として生きる人は少なくなっている。

 

かつての常識が今は非常識になっている例なんて数え切れないほどあり、常識というのはそれほど「ふわふわっ」としているものなのだ。

 

 

 

自分の意見が少数派でも正しいと思ったら貫け!!

ひとつ奇妙なことがある。

 

多数決での答えが正解かどうかわからないにもかかわらず、自分が少数派になると、なぜか”敵”のような扱いを受けることだ。

 

 

現代社会でもそう。

 

とにかく多数派が少数派を”敵”として攻撃(批判)する。

 

対する少数派の対応といえば、

  1. 批判を受け、多数派に入る。
  2. 批判を恐れ、周りの目を気にして何も言わなくなる。
  3. 批判を恐れず、自分の意見を貫く。

上記3つだが、ほとんどの人がやっているのが1か2。

 

3の人は少数派の中でもさらに少数派なのである。
(ちなみに僕も今のところ1か2…)

 

しかし、よくよく考えてみよう。
そんな多数派の連中のほとんどは、明確に根拠を持って自分の意見を持っているわけではない。
「みんなが多数派だから」自分も多数派になっているのである。

 

僕自身、そんな人たちの批判を真に受けていたと思うと、めちゃくちゃバカらしくなってきた。
自分の意見が少数派になった時、その意見を貫くのはとても勇気がいることだが、自分らしく生きるには絶対に曲げてはいけないところだ。
(間違っていると気づいた場合は別。)

 

自分が少数派になっていたとしても、自分が正しいと思ったことは貫こう。
人のことを批判している暇がある人間をいちいち気にしているほど暇じゃない。

 

 

 

 

 

P.S.
そんな常識について改めて気付かさせてくれた西野さん、ありがとう。

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